牧千夏の話したいこと

読んだ本や考えたことを勝手に紹介しています。

いまのあなたを、ついでに助ける_『チョンキンマンションのボスは知っている』

小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社、2019)を読みました。

一言で言えば

香港のチョンキンマンション周辺で繰り広げられる、タンザニア人によるアンダーグラウンドな経済を解説しています。ここでは、たまたま居合わせ他者と「ついで」で助け合い、楽しみや喜びを中核にした経済活動が行われます。

 

もう少し詳しく言うと

人格は、その場その場で立ち現れる一過的なもの

  • 彼彼女のべつの顔に踏み込まずとも、別の皮に全面的に信頼が欠如していても、特定の顔において真剣に信頼を争うことはできる。52
  • そもそも彼らはここの実践行為の帰結を他者の人物評価――努力が足りない考えが甘い優しさが足りない等――に結びつけて語ること自体をほとんどしない。(略)責任を記す一貫した不変の自己などないと認識しているように見えるのだ。83
  • 困ったことがあったら仲間を頼るというのは、独立独歩の精神が高い彼らにとって、自力で生きることとのバランスの上で模索されている。逆に言えば、彼らは基本的に自力で生きているからこそ、本当に困った時には助け合うという関係が成り立つ。185
  • それでも災難や困難にともに対処していくためには、長く付き合う・深く分かり合う・強く信頼し合う・確かな絆を作るといった発想とは、異なるアイデアが必要となる。243
  • そもそも自分たちを対等であるとみなしていない人々に対しては、扱いやすい人間にならないことが肝要であると説明した。遅刻やすっぽかしの全てが計算づくではないだろうが、我が道を歩いていることは、アフリカ人あるいは不安定な移民難民としての彼らが、実質的には力関係の異なる香港の業者と対等な関係を築くための駆け引きの一環なのかもしれない。98

彼らは、人間性や性格を、その場そのときに立ち現れる一過的なものとして捉えます。そのため、その彼彼女が困った状況にあれば助け、安定していれば信頼するといった、状況に合わせた関係が結ばれます。

その前提には、個人の自律や自由があります。

他者とともにある喜び

  • それゆえ効率性を追求して、彼らのプラットフォームを市場交換に適した形に洗練・制度化させていくことは、本来の目的であった気前良く与える喜び・仲間との共存・遊び心やいたずら心・独立自営の自由な精神の価値より経済的価値を優先させていくという矛盾を生起させる。161
  • 故郷の人々に贈り物をすることも、プロジェクトを構想することにも、その営み自体に快楽があり喜びがあるのだ。だが当たり前すぎて、あるいはその快楽のもつ功罪に慎重すぎて、私はその事実を忘れがちだ。私は贈与によって誰かに負い目と権力が生じるのが嫌なのだ。(略)彼らが現在を生きている背景は、恐らく仲間に分け与えてしまうことと無縁ではない。226

彼らは、そのような他者に与え/与えられ、ともにある喜びを大切にしています。そのため、経済的な効率や蓄財などは優先されません。

ついでで回す

  • カラマたちと暮らしていると、組合活動への実質的な貢献度や、特定の困難や窮地に陥ることになった原因をほとんど問わず、たまたまその時に香港にいた他人が陥った状況結果だけに応答して、可能な範囲で支援するという態度がひどく観察される。79
  • 彼らの日常的な助け合いの大部分は「ついで」出回っている。(略)誰もが無理なく行っているという態度を押し出しているので、この助け合いでは、助けられた側に過度の負い目が発生しないのである。85
  • 彼らの間で、贈与された人が贈与してくれた人に返済するという贈与交換の関係を維持するのは難しい(略)彼らのやり方としては(略)たまたま取引を成立させたもの、偶然についての機会を得たものが、偶然に必要とするものの要望に応えていくことで、輪郭の曖昧なネットワークの中で物やサービス、チャンスを回していくものとなっている。160
  • 彼らが「ついで」「無理のないこと」を強調するのは、それが与え手に取って有効に活用できる無駄だからではなく、その取るに足らないさこそがそれぞれの人生を探しに香港に行ってきて、それぞれのやり方で生きているここの自律性、互いの対等性を阻害しないからである。そして彼らが互いに支援し合うのは、市民社会、環境持続的な社会の実現ではなく、偶然出会ってもともにあることとなった得体の知れない他者に、私はあなたの仲間である、あなたは私の仲間であると表明するためであるように思われる。249

彼らは、他者に「ついで」で貢献します。そうすることで、自身の自律や自由を保ったまま他者に貢献できるし、他者にも過度な負い目を発生させません。

真面目に働き、自己責任に帰す日本人

  • 日本人は真面目で朝から晩までよく働く。(略)アジア人の中で一番朗らかだけれども、心の中では怒っていて、ある日突然、我慢の限界が来てパニックを起こす。彼らは、働いて真面目であることが金儲けよりも人生の楽しみよりも大事であるかのように語る。236
  • ただ真面目に努力してリスクの管理をし出来る限り誰にも迷惑をかけずに生きるそれこそが大人であり社会人であると言った規範があまりに強固になりすぎると、無謀な挑戦だけでなく、案ずるより産むが易しに見えるような挑戦すらも思いとどまらせることになり得る。241
  • ところが今日のシェアリング経済は、こうした誰かに負い目と威信を与えないようにする細やかな実践や、私はあなたと共にあるの意思表明の代わりに、評価経済システムによって、与えたり受け取ったり返したりがキチンと遂行できないものを排除することで経済的な価値を優位に置くシステムとして機能しているように見える。252

日本人は、タンザニア人商人とは対照的に、人間を一貫したものと捉え、そのために自己責任と互酬性が重視されます。それを維持するために、それぞれの人間が真面目にリスク管理をしているかどうか、監視されます。

互酬性の恐ろしさ

  • アンパックの議論の面白さは、こうした好循環の互酬性がいかに容易に悪循環の互酬性にスライドするかを説明しているところにある。241
  • アンパックは、こうした悪循環から抜け出すためには、誰かが自己犠牲を払い、後循環へと飛び込むしかないと結論する。だがそれは未来への不安が拭えない者にとっては、危うい精神論にもなりうるし、全体主義に結びつく危険性もある。242

互酬というのは、うまくいっているときは助け合いになるが、それができない人が現れた場合、報復に変わります。

小川さやか氏

  • 私はもともと贈与や所有、分配市場交換貨幣などをテーマとする経済人類学と経済思想に関心がありコピー商品や模造品の貿易に関わる実践を明らかにすることで、経済人類学の理論的な刷新や新しい経済思想に貢献することを(この時点では)企図していた12
  • 私自身は、タンザニアの行商人や露天商路上商人を「偽装失業層」「不安定就労層」に位置づけるインフォーマル経済の視座にあまり関心を持てなかった。参与観察のために路上商人に弟子入りした私にとって、零細商人たちはいかに零細で貧しくても、たとえ従業員を持たなくても、ユニークな発想や知恵経営哲学や思想手腕を持つ「起業家」であったのだ。13
  • 多くの仲間達に奢られ、助けられ、贈与される日々は幸せであり、降りかかる問題をお金を使わずに解決すべく頭を使う日々はスリリングでもあった。229
  • 私は国家の社会保障制度や警察機構が不要だとは思わない。それらはいずれも私たちの生活基盤として重要である。しかしそういうものがなくても、それなりに自前で生きていける仕組みを築けることは、シンプルにすごいことだといつも思うのだ。270
  • 彼らと一緒にいると、私のような人間でも、他者と深くコミットできなくても、社会は築けるんじゃないかという逆説的なことをつい考えてしまう。いや案外それが言いたかったのかもしれない。271

小川氏は、タンザニア人商人の生き方を、貧しい/未熟とは捉えません。その力強さをすごい、と評価します。その評価を、小川氏の日本人的な感覚との葛藤のなかで行うので、深くうなづけます。

 

感想

私は産業組合(JAの母体)を研究しています。協同組合の思想は、相互扶助です。小資本は、独立して経営すると非効率的でかつ破綻の危険性が高い。協同組合では、小さな資本を結集させて共同の法人を作り、協同して経営することで、効率化を図ります。そして、一人一人の資本が小さいため、組合員のひとりが破綻することもありますが、そのばあい、他の組合員でカバーして組合全体の破綻を防ぎます。簡単に言えば、助け合いですね。この思想から協同組合は、法人という経済団体の側面と同時に、精神の側面をも強調されていました。

 

私は、この協同組合の思想に惹かれると同時に、ひそかに息苦しさを感じていました。当時の論説や投稿などを読むと、一致協力を求めるがゆえに、協力できない者(組合費を払えない、禁酒や掃除などのルールに従えない)に対する批判が強いのです。

 

一方で、私はアナキズムを非効率的だと思いながら、そちらに惹かれてもいました。アナキズムと組合思想との対立を、私は大杉栄賀川豊彦との対立で学びましたが、正直に言って大杉の方に惹かれます。賀川は、労働争議を労働者が協同した形態で行おうとしますが、大杉は労働者それぞれの不満や怒りにまかせて、その思うままに戦えと言います。資本家と戦い方としては、賀川の方が効率的で現実的ですが、人間(少なくとも私)の感情や行動の仕組みとは、少し齟齬をきたすように思いました。私は、怒りを感じたらその怒りの分だけ行動したいです。同時に、誰かの怒りのために立ち上がったとき、無理を感じてしまいます。

 

こう考えてみると、協同組合の思想というか、私自身の問題のような気もします。私は、たぶん真面目で、集団に属するとそのルールを進んで守り、協同一致のかけ声をかけるタイプです。そういう自己犠牲的な部分がある反面、それに従わない人に対して、強い反感を持っていまいました。私は、自分のそういう部分がとても嫌いでした。協力とか言ってるくせに、私は全然優しくないじゃん…、と。

 

その反感がなぜ起こるかというと、私自身が無理していたからです。私は人一倍不器用で、能力が低く、集団の標準についていくために、隠れてヒイヒイ努力していました。自分が無理をしているから、それをしない人への怒りが増幅するのでしょう。

 

じゃあ無理しなきゃいい、集団から離れればいい、と言えば、そうも簡単に言えません。私は誰かと一緒にいることが好きで、コミュニケーションが好きだからです。だから互酬や相互扶助とは別のあり方で、人と関係するにはどうすればいいのだろう、とぼんやり考えてきました。

 

当書で説明される「ついで」の助け合いや一過的な自己、という考え方に、なるほど、と思いました。無理なく助け、私とあなたの〝いま〟にフォーカスする。具体的には、仕事の分担を決める会議の時に、自分の論文の進捗状況ばかりを考えず、ちょっとなら手伝えますよ、と言ってみるという感じでしょうか。

 

話がそれてしまいましたが、とても勉強になった本でした。