文例文化の歴史_『文体史零年』
『文体史零年 文例集が映す近代文学のスタイル』を読みました。
文例および文範に注目するということに、まずは驚きました。
私は地方の文学青年や文芸同人誌に関心があるのですが、 彼らは文例集をとてもよく読んでいます。オリジナルな文例集などを作っていることもあります。
この文例文化とも言うべきものはどのように広がっているのだろう と不思議に思っていました。そうした全国的に拡がった文例文化を掘り下げた点になるほど!でした。
各章については、まずいまのところ読んだところを。
序章では、 こうした文例研究が文学研究をどのように切り拓くかが具体的に示 されています。
『吾輩は猫である』は猫を一人称にしたことではなく、 「吾輩」「である」という文体から読み解けるということですね。 私は大正時代以降の資料を主に扱っていますが、 演説調の文章の文末は、たしかに「であります」が一般的です。「猫」 がこうした細かい文体に気を遣って滑稽さやずれを生み出している ことがよく分かりました。
第3章も面白く拝読しました。特に驚いたのはp. 76から始まる指摘です。明治前期における演説の文体が一定しておらず、ですます調の日常談話的な文体から、 文語で書かれた草稿を慇懃な調子で読むようになったというのに、驚きました。以前、 講演録などを調べたことがありますが、 いわゆる演説調の文体はある程度紋切り型であるように考えてきたからです。そして『経国美談』 のエパミノンダスが後者の、準備した演説形式を
とっていたということになるほどと思いました。
あと、多田蔵人氏の論をいくつかまとめて読んだことで、氏の文章がそもそも文体的に美しいと思いました。この本でも、序章と3章の論文としての文体の違いがすごいですね。序章とはいえ、すでに本格的な分析に入っているように思いましたが、文体をガイド的にすることで、とても入りやすかったです。
