木村洋氏の「女哲学者、平塚らいてう」(『日本近代文学』105、2021)を読みました。
一言で言うと
1900年代に、哲学が、若い世代の自己主張の土台になっており、その動きが同時期に文学作品に取り入れられた、ということです。
もう少し詳しく言うと
2では、
1890年代後半から1910年ほどまでの、文学と哲学との関係がまとめられます。
1890年代の観念小説と悲惨小説では、哲学的な傾向が強まり、それは国木田独歩に引き継がれます。ニーチェ熱や本能主義もこの文脈に関係します。
こうした動きは、哲学に関する記事が文学雑誌に掲載されたり、書籍が多数発刊されてたりする環境に支えられていました。
3では、
極大の時空間を意識する哲学的な思索が、若い知識人を魅了し、それが国家や社会道徳と対立するものだったことが指摘されます。
この哲学重視の文脈では、「宇宙」などといった極大の時空間が意識されます。それが、国家社社会とはべつの、自己規定の思索方法となります。(例 独歩、後藤宙外)
この思索方法を通じて、日常的な規範から飛躍が可能となります。若い知識人とくに個人主義者は、この思索方法に魅了されました。
4では、
この哲学と文学との親密化が、文学に新たな女性像を生むことになりました。
小栗風葉の「さめたる女」では、ノラ(人形の家)や本能主義の影響が見られる、哲学的な思索をする女性が登場しました。
現実にも、哲学的な懐疑をもつ女学生が事件を起こし、さらに小説にも哲学者風女学生が登場しました。
5では
哲学と女性との関係が、らいてうを例にして論じられます。
らいてうと森田草平の心中未遂は、らいてうな哲学的な思索が要因でした。それは遺書や手紙、読書記録などから分かります。
この心中未遂事件をもとにした小説に『煤煙』があります。これは「さめたる女」同様のノラ風の婦人が登場しますが、風葉と異なって、その婦人を肯定的に描きます。哲学的な思索は、作品で恋愛において二人の関係を強める役割を果たします。
6では
以上の流れがまとめられます。
哲学的な思索は、新しい思索の方法となり、社会変革の主体を育てました。それがらいてうということです。
感想
木村洋氏の論文はやっぱり美しいです。論証が、均整かつ流れよく連なっています。
最後に山川菊栄が登場していましたが、らいてうのフェミニズムはのちに左翼の女性達に批判されます。個人主義だ、とか実践的でないとか。けれど、男性が主導した哲学的な思索の文脈の中に、あらためてらいてうを置いてみると、この当時の彼女の強さが分かりました。
勉強になりました。