五味渕典嗣『「国語の時間」と対話する』(青土社、2021)を読みました。
一言で言えば
2018年に公表された「新しい国語」の批判と、作品を精読する授業の提案です。
もう少し詳しく言うと
まず、新しい国語科を支える現状把握として
- PISA:読解力の低下
- 全国学力・学習状況調査等:以下が問題
- 小学校:主語や表現の把握・構成の理解・要約・複数の状況との関連付け
- 中学校:根拠を読み取る・根拠を持って話し書く読む・複数の情報を比較
- 高校:教材への依存度が高い・講義型の授業・古典の学習意欲が低いp.34
が示されます。
これに対応しようとした結果、これまでの高校国語が積み上げた知見を空洞化させてしまったと指摘します。
具体的には
- 現代の国語:話す・聞く・書く・実用的な文章の傾斜
- 言語文化:文化ナショナリズム。1990年代以降の人文社会知を無視p.44
- 論理国語:レポートを重視するが、現職教員にその評価の時間は無い
となってしまいました。そして新たに出てきたキーワードは3つ
です。
しかし、五味渕氏は、この新しい国語をお仕着せするのではなく、国語は、作品と教員と生徒とが、自由に知性を対話させる空間だと主張します。
その具体的な案として
が提示されます。
感想…
面白かったです。実社会重視に抵抗し、作品をじっくり読む国語を提案するというのは、多くの国語科教員が賛同すると思います。
しかし、私の力ではこのレベルまで授業をもっていけるイメージが沸きませんでした。
当書では、作品を一通り読みこなし、そこからさらに抽象化させたり、メタ的な立ち位置に立って作品を相対化し、批判する授業が提案されます。
例えば
- 「水の東西」では、二項対立の有用性とその危うさを教えてくれるp.21
- 「「である」ことと「する」こと」は、一つの視座が開く知の可能性とその限界の双方を教えてくれる。p.177
です。
私だけなのかもしれないが、教室で教材を批判的に読むのはとても難しいです。
ある教材の構成や表現を読解し、さらに問でそれを深めていく、という授業の行為は、まずは教材を肯定することが前提となります。そうでないと、そもそもこれを学ぶ必要はない、という話になってしまうからです。
だからいったん肯定的に読み取った後、批判に入りたいのですが、この基本的な読み取りだけで、なかなか大変なのです。ややもすれば、スマホや睡眠に連れて行かれてしまうので、もうありとあらゆる手段を使って、注意をこちらに向けます。
そのため、基本的な読解を終わることには、私はもうすべてのギャグや工夫を使い果たしています。ここからさらに、メタ的な位置に立って批判、となると起きて眼を輝かせて発言してくれるのは数人です。1人また1人と頭を垂れていくなかで、さあこれから批判に入りましょう、と張り切ることはできません。この批判の段階で、グループワークやディスカッションを企てたこともあったのですが、基礎的な読解がままならないため、なかなか盛り上がらないのですよね。
私はやる気はあるけど、力のない教員です。当書を読んでワクワクする反面、私はこれをやる力がない、と現実に戻ってしまいました。