牧千夏の話したいこと

読んだ本や考えたことを勝手に紹介しています。

患者はすでに自分で自分を助けている_『技法以前』

向谷地 生良『技法以前 べてるの家のつくりかた』(医学書院、2009)を読みました。

印象に残った部分は次の通りです。

 

  • (前略)きっと後味が悪くて、後悔することも多いと思うけれど、今の苦しさを緩和することにかんしては、あなたはプロですよ」/そういうことによって「自分を助けたい」という忘れかけていた動機が当事者に蘇ってくる。「すでに自分を助けようとしている自分」が見えたことによって、より効果的な新しい自分の助け方を一緒に見出して行こうとする連帯が生まれるのである。_25ページ
  • 現場でよく聞かされる言葉は「患者さんと距離を保つこと」であり、それは対人援助職の大切なわきまえとして定着している。しかし神谷美恵子から伝わってくる対人援助職としての姿は、当事者の現実から距離を取ることではなく、むしろその中に降りていき、辛い現実に共にたたずみ、共に弱くなることなのである。_48ページ
  • なぜなら統合失調症を抱える人たちの苦しみの中心には、常に「誰もそばにいない感覚」があるからだ。だからみんなは休日と夜間に弱い。人の気配がしないと、お客さんがやってくるのだ。_103ページ
  • 従来「幻覚や妄想といった統合失調症の主症状は、当事者の的な世界の出来事である」と考えられていたため、現場には長い間そこに立ち入ることをタブー視する傾向があった。幻覚や妄想の世界に立ち入ることは妄想の強化につながり、固定化すると信じられてきたからである。(略)そこで私たちは、幻覚や妄想に立ち入らないどころか、それらの忌まわしい体験を当事者も最もイメージしやすいキャラクターや、わかりやすい言葉に置き換えてきた。例えば幻聴につながる体調変化の兆しを「赤信号が点滅」と言い、自己対象を「自分を助ける」というように。そのような仕掛けによって、仲間や援助者に共通理解が広がってくると、当事者は主役としての役割を獲得しやすくなってくる。_127ページ
  • 「プライバシーの保護」は今、人が生きるという素朴な感覚と、私たちの日常的な暮らしの実感からかけ離れたところで肥大化権威化しつつある。精神保健福祉の現場に蔓延するプライバシーと個人情報の過剰な保護が、精神障害を持った人たち、特に当事者の生命線ともいえる「人と人との生命的なつながりをいかに回復するか」という命題に、深刻な危機を招く可能性を孕んでいると私は思う。_160ページ

 

宮沢賢治は幻覚を見、幻聴を聞く人でした。ただ、宮沢は幻覚幻聴をおそれるというよりは、それらと対話的に付き合っていました。こうしたことから、べてるの家に関心を持つようになりました。

 

これまで、精神的・肉体的困難を抱える学生と関係してきましたが、その困難への対処が、本人の中で自己効力感につながっているように見えることがありました。私は困難を取り除いたほうがよいように思っていたのですが、その困難が本人を支えているように見えるときがあるのです。その困難に本人は困っているので軽々しく言うべきではないのですが、その困難も含めて本人なんだという感覚ですかね。うまく言えないのですが・・・。

 

自分の研究の関心とはつなげられませんでしたが、ふだん私が悩んでいることに少しかたちをあたえてもらったように思いました。

 

勉強になりました。