村中直人『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店2022)を読みました。
引用と感想
- 悪いことをした人に罰を与える「処罰感情の充足」もまた、人間にとって魅力的な「報酬」の一つであるということです。_50ページ
- こういった処罰欲求は、一体なぜ人間に備わっているのでしょうか。一つの仮説として有力だと考えられている、社会の規範やルールを維持するための役割を果たしているのではないかということです。_51ページ
- 皆さんに知ってもらいたい、処罰欲求が暴走するお決まりのパターンがあります。/それは、本来個人的な欲求である処罰欲求が、「相手のため」「社会のため」にすり変わってしまう場合です。_165ページ
相手のためという大義名分を掲げて、自分が気持ちよくなっているということですね。だから「叱る」ことは歯止めがきかないのですね。
- 苦しみが成長に繋がるのはそれが他者から与えられたときではなく、報酬系回路がオンになる「冒険モード」において、主体的自立的に苦しみを乗り越える時です。_162ページ
- 冒険モードになるための鍵は、「自己決定」にあります。/つまり「自分で決めた」「自分がしている」という感覚です。これらの感覚が奪われると、人は冒険モードになります。_189ページ
自分の経験でも、子ども(学生も)を見ていても思います。学習は主体的な時にいちばん効果的だと思います。
それは「叱る」がやめられない人も多くには、そうならざるを得なかった背景がある、ということです。何らかの「受け入れがたい現実」を抱えているケースが多いのです。また、「叱らずにはいられない人」はかつて本人が「叱られ続けた人」であることも少なくありません。_166ページ
これは、私であり、私の父ですね。私は「叱る」が正しくないということを、自己満足の暴力でしかないということを、肝臓に入れ墨しなくてはなりません。
自分も傷つけてしまうか、他者に害を与えてしまう場合には当然何らかの対応をしなくてはなりません。こうした危機介入として「叱る」はとても有効な方法ですが、あくまで対症療法でしかありません。根本的な問題解決の方法ではないので、出来る限り速やかに叱り終える必要があります。具体的には、問題となる状況がなくなった時点ですぐに「叱る」を辞めなくてはいけないのです。_170ページ
子どもを叱っていると、ヒートアップしてとまらないときがあります。叱るはすぐやめるということですね。
全体的な感想
正直に申し上げると、私は以前「叱る」ことに、教育的な価値を感じていました。けれど、教員として生徒や学生に接するなかで、そしてなにより子育てのなかで、それは正しくないと実感するようになりました。叱っているときの自分というのは、相手のことを思うというような優しい自分じゃないんですよ。狂暴で自分勝手でどうしようもない自分です。私は、まず「叱る」を正当化しないということを始めたいと思います。