牧千夏の話したいこと

読んだ本や考えたことを勝手に紹介しています。

レビュー_エドワード・W・サイード『知識人とは何か』

エドワード・W・サイード著、大橋洋一訳『知識人とは何か』(平凡社、1998)を読みました。

 

知識人の性質として、重要なポイントは、次の3つにあると読みました。

 

①表象(代表、代弁)する

「わたしにとってなにより重要な事実は、知識人が、公衆にむけて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを、表象=代弁し肉付けし明晰に言語化できる能力にめぐまれた個人であるということだ。」(p.37)

 

ここでいう「公衆」とは「日頃忘れ去られていたり厄介払いされている人々」(p.38)のことです。そうした人たちの意見を、世俗権力や国家に対して主張し、彼らを説得しようというのです。

 

②権力や集団の歴史を暴く

「集団や国民的アイデンティティをめぐるコンセンサスに関して、知識人がなすべきは、集団とは、自然なものでも神があたえたもうたものでもなく、構築され、造形され、ときには捏造されたものであり、その背後には闘争と征服の歴史が存在するということを、必要とあらばその歴史を表象しつつしめすことなのだ。(p.69)

権力や力をもった集団がどう作られたか、そのしかけをバラすことで、強大な力を崩そうというのです。日本の失敗例も出てきます(p.80)。

この時役立つのが「亡命者」の視点です。漂白する者であるために、ある1つの考えを信じ込むことなく、これまで立たされてきた視点から捉えられるのです。

 

③アマチュアである

「アマチュアリズムとは、文字どおりの意味をいえば、利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点にしばられることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる活動のことである」(p.136)

専門家のなかでのルールに縛られず、報酬や褒賞にもつられず、また専門家として期待される〝あることには詳しいけれど、社会には無関心でニュートラルな人〟という役割からも逃れて、主張できるということです。

 

他に心打たれたものとして

私見によれば、知識人の思考習慣のなかでもっとも批難すべきは、見ざる聞かざる的な態度に逃げ込むことである。たしかに、いかに風当たりが強くても、断固として筋を通す立場というのは、それが正しいと分かっていても、なかなか真似のできないことであり、逃げたい気持ちはわかる。あなたは、あまり政治的に思われたくないかもしれない。(略)あなたは望むのは、意見を打診されたり諮問されたりする立場となり、理事会や高名な委員会の一員となること、そして、責任ある主流の内部にとどまり続けることである。」(p.161)

 

私は知識人と言えるような博識さはありませんが、教員という立場にいます。この本を自分自身の態度として反省することも多く、考え込んでしましました。

 

自分自身の反省として、言いやすいことばかり言っている、ということがあります。すでに認められた意見の後ろについてまわることばかりしている気がします。サイードはそれを痛烈に批判しています。

もちろん、賛成する気持ちがあるからそういう態度なのですが、自分のなかに小さな違和感があることに気づいてもいます。ただ、それをうまく説明できないため、すでに認められた意見について行くことしかできていないのでしょう。

 

イードの表象の話からはズレますが、失敗してもいいから、やはり思ったことは言おうと、改めて思い直しました。