若松伸哉「「孤独」な交友――太宰治『惜別』と地方文化運動」(『日本近代文学』104、2021)を読みました。
一言で言えば
太宰治『惜別』を、国籍ではなく個人が孤独を介してつながる作品として論じています。
もう少し詳しく
一では、作品で地方性が強調されていることが論じられます。
主人公:田中卓(田舎の城下町出身)は、周さん(清の留学生)、藤野先生(関西なまり)に対し、「日本語不自由組」として親密な気持ちをもっていた。
この作品は、田中卓が老医師となった後に、記者からインタビューを受けたことをきっかけに、医専時代を懐古する形式で書かれている。ここで、記者が地方文化を強調するのに対し、田中卓は個人的に恩師と級友を慕う気持ちで書いたことが強調される。
二では、戦前日本で地方が注目を集めていたことが論じられます。
戦時下では、地方文化運動が盛り上がっていた。それは日本文化の起源として地方文化を捉えることが目的であった。とくに東北地方では積極的な反応があった。
三では、二を踏まえて作品が読み直されます。
田中は仙台を東京と比較して田舎と見なし、周さんは清国留学生とわかり合えない気持ちが吐露する。そして、田中と周さんをつないだのが、集団に対する違和感(孤独)であったことが指摘されます。(ただ、この結論は単純に時局の抵抗として論じられません。とても慎重に論じられています)
個人的に学んだこととして
作品→同時代→作品という論文構成
私は作品と同時代の関係を論じる際、作品→同時代→まとめ、という構成を取っていました。若松氏の論文では、まず(一)作品のなかの地方の問題を論じた後、(二)同時代の地方の問題が扱われ、(三)最後に同時代の問題を踏まえて作品の地方の問題と、それとの差異によって個人の孤独の問題を浮かび上がらせます。
私はよく、同時代を調べることはいいけど、それによって読みがどう変わったの?という指摘を受けます。こうすべきなのだな、と思いました。
読みやすく均整のとれた論証
形式段落が論証の一つ一つのパーツとなっています。それらきちんと論理的につながっているため、ひとつひとつ納得しながら読み進めることができました。
それにしても、なんでこんなに読みやすいのでしょうか…。私はおそれおおくも、授業で文章の書き方なんて教えているのですが、いつも「一文を短く!」と口を酸っぱくして言います。若松氏の文章は一文が長めだと思うのですが、流れがあり、端正でとても読みやすいのです。
勉強になりました。